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 1章・スロットマシンからパチスロへ 【米スロットマシン〜1号機】
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 現在のパチスロの歴史をさかのぼっていくと、間違いなく、米国のスロットマシンに行き着きます。

 しかし、米国スロットマシンから、どのような変遷を経て、現在のパチスロに至ったかは、専門家の間でも種々の見解があり、正確なことはわかっていないようです。

 本章は、いろいろ異なる各情報を筆者なりに総合的に判断して、難解な文章が多い歴史記述を、できるだけわかりやすい言葉でまとめたものです。

 したがって、本章の記載内容は、必ずしも正確であるとは限りませんのでご注意下さい。
 おおまかに、こんな感じだった、というのが伝わってもらえれば幸いです。

 なお、スロットマシンの歴史に大変造詣の深い、東京ラスベガスランドの「なぞのX」氏より、多くの貴重な話と画像をメールでいただき、また、本章の最終的な監修をしていただきました。この場を借りて、お礼を申し上げます。


 
 【0】初めてのスロットマシンとフルーツ絵柄 〜アメリカで誕生

 本サイトでは、日本におけるスロットマシンの歴史を中心に扱っており、アメリカのスロットマシンについては、軽く触れる程度にとどめておきます。

 スロットマシンは、1899年(明治32年)、アメリカの「チャールズ・フェイ」によって、初めて作られました。
 マシン名は
「リバティ・ベル」です。

  

 「3つのリールが回転し、絵柄が揃うとコインが払い出される」という基本動作は、ここで完成されました。
 絵柄にはまだフルーツは存在せず、「ベル」、「星」、「蹄鉄」、「トランプマーク」が採用されています。

 以下のサイトでは、大変貴重な画像とともに、アメリカにおけるスロットマシンの歴史が簡潔に綴られていますので、興味のある方は、是非ご覧ください。

 ⇒ 参考サイト : フジ・コーポレーション 「スロットマシーンの誕生と歴史」 ※ミラー


 フェイが作った「リバティ・ベル」は、その後のスロットマシンに絶大な影響を与えます。

 「3つのリール」等の機械的な基本要件の追随以外にも、各メーカーが競うように自社製品に「ベル」という名前を付けたことにより、3リールのスロットマシンを象徴する代名詞的な言葉として「ベル」が定着するようになりました。


 さて、日本と同じく、やはりアメリカでもスロットマシンは「ギャンブル(賭博)機」とのレッテルを貼られることが多く、当局とメーカーの間で「ギャンブル機か否か」のせめぎ合いが各資料で見られます。

 その過程で、1910年(明治43年)、アメリカのミルズ社が、「スロットマシンはギャンブル機ではない」と主張するにあたり、スロットマシンにガム自販機を取り付けたマシンを発売します。(現金の代わりにガムが払い出される)

 明らかに、賭博への批判をカモフラージュするための強引な主張ですが、それが元で誕生した
「リバティ・ベル・ガム・フルーツ」において、初めてスロットマシンの絵柄に「フルーツ」が登場することになりました。

       
※ガムが入った状態


 採用された絵柄群は、「ベル」、「オレンジ」、「プラム」、「レモン」、「スペアミントの葉」、「横長の棒状シンボル」の6種類で、フルーツはガムの味の種類、また、「横長の棒状シンボル」はそのガムの
ブランド・マーク(商標)です。

   
(画像クリックでリール画像へ)


 なお、その横長の棒状シンボルは、やがてその形状から「BAR」という文字列に変化し、さらに2段重ね、3段重ねと発展を続けました。

 こうした経緯で誕生したフルーツ絵柄は、現在のスロットマシン(パチスロ)の共通絵柄として、なぜか当時のガムのブランド・マークと共に、現在まで100年以上に渡って脈々と受け継がれることになります。


 ちなみに、スロットマシンの最も象徴的な絵柄である「チェリー」は、上記の中に存在していません。

 チェリーは、「リバティ・ベル・ガム・フルーツ」と同年に発売した、ガムの自販機が付かないタイプのスロットマシン、
「オペレーターズ・ベル」で、「スペアミントの葉」が「チェリー」に置き換えられことから始まります。

  

 現在ではスロットマシンのシンボルと言える「チェリー」も、当初から存在していたものではありませんでした。

 なお、その後は、20年以上の時を経て「スイカ」絵柄が登場するとともに、「ブドウ」、「リンゴ」、「メロン」などの絵柄も続き、各種フルーツが時代の変遷とともに増えていくことになります。



 
 
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 【1】初めての日本におけるスロットマシン稼働 〜沖縄上陸

 
「スロットマシンの発祥は沖縄である」というのは、ある程度、一般的な認識ですね。
 日本では、まず、アメリカのスロットマシンが沖縄に持ち込まれ、ギャンブル機(景品と交換可能)として稼働していました。 

 初めてスロットマシンが日本に持ち込まれた正確な時期は不明ですが、戦前の話として日本でのスロットマシンが言及された例はありません。

 やはり、終戦の1945年(昭和20年)以降に、日本に駐留する占領軍(米軍)が持ち込んだものと見るのが妥当と思われます。

 ただし、「海外のカジノで稼働しているスロットマシンで景品と交換してもいい」のお墨付きを警察が与えた歴史は存在しません。

 これは、当時、沖縄が米国統治下にあったため、ギャンブル機であるスロットマシンの稼働が可能であった、つまり、スロットマシンは「治外法権」的に存在していたものです。


 実は、日本本土でも、スロットマシンを景品交換可能なゲームとして導入しようと試みられたことがあります。

 1954年(昭和29年)、米国進駐軍から払い下げられたスロットマシン(約60台)を、北海道内のホテルや喫茶店、キャバレーなどで営業したいという業者が現れ、北海道本部刑事部長から警察庁防犯課長に対して、営業を許可してよいかどうかの伺いを立てています。

 ちなみに、この時の伺い案が「メタル料金は1枚20円」、「賞品はメタルの相当額」、「賞品は随時交換するも、現金等は絶対禁止」と、現在のルールの下地になっています。(この頃は、メダルではなく、メタルと呼んでいました)


 これに対する警察庁の回答は以下の通りです。

 ⇒「所問のスロツト・マシン機については、技術介入の余地が乏しく、単なる機械自体の偶然性により賞品の得喪を争うことが主であるように思料される。従つて、遊技場営業における設置機械としては適当でないものと考える。」

 ここに初めて、警察庁により、スロットマシンは「賭博機」であり「設置禁止」の見解を出されたのです。
その理由は、
「技術介入の余地が乏しい」からでした。


 スロットマシンが、日本向けのオリンピアマシンに変遷し、営業許可を受けた後も、しばらくほぼ沖縄オンリーであり、いまだに沖縄のスロットが「沖スロ」として特種な扱いなのは、この時の「本土は違法、沖縄は知らん」といった背景から来ているのではないかと思われます。


 
 【2】初めての日本スロットマシンメーカー 〜セガとミルズの関係

 アメリカの
「ミルズ」社と、日本の「セガ・エンタープライゼス」社
 日本のスロットマシンの歴史を語るには、この二社は外せません。

 セガ・エンタープライゼス社というのは、現在の大手ゲームメーカーの、あの「SEGA」です。

 そう、セガは元を正せば、
日本初のスロットマシンメーカーだったんです。(とは言っても、当時のセガはアメリカ外資系の会社であり、現存する純粋な日本生まれの「初パチスロ」メーカーは、高砂電器(現・アビリット)です)


 ここで、セガ社が創設されるまでの経緯を簡単に紹介します。

  1940年   米にてサービス・ゲームズ社創設。ハワイ米軍基地でジュークボックスのメンテナンス事業を開始
  1952年/5月 ジョンソン法(後述)適用外の米軍基地にスロットマシンを送り込むため、東京に事業拠点を設置
  1950年代中 各種のスロットマシンの製造/販売(後述)
  1960年   サービス・ゲームズ社解散。
日本娯楽物産(営業)と日本機械製造(製造)に分裂
  1960年/7月 日本機械製造が国産ジュークボックス第一号「セガ-1000」を製造
  1964年   日本娯楽物産が日本機械製造を吸収合併
  1965年   ローゼン・エンタープライゼスと経営統合し、
社名を「セガ・エンタープライゼス」に変更


 ⇒ 参考資料 : ゲームマシン 「それは『ポン』から始まった」


 セガ社の前身はアメリカのサービス・ゲームズ社であり、セガという会社が出来る前の段階で、既に「セガ」の名の付く製品を数多く出しています。

 これは、SERVICE GAMES社の「SE」と「GA」の部分を取り出して、「SEGA」と名付けていたものと思われます。

 本章では、セガの前身時代の「サービス・ゲームズ社」、及び「日本娯楽物産社」を、合わせて「セガ」と呼称しています。


 さて、セガは、1950年代の中頃に、アメリカのスロットマシンメーカー「ミルズ社」と提携に乗り出します。

 ミルズからスロットマシンに関する特許を買い取り、「ハイトップ(筺体)」と呼ばれるミルズの特徴的な筺体のマシンのコピー品を製造していきます。

 その第一弾は、ミルズの「ハイトップ777」をコピーした
「セガ・ベル」というマシンでした。

  

 以下の資料は、ハイトップマシンの共通マニュアルです。

   
(画像クリックで大きな画像へ)


 本文内にある画像は、明らかにミルズのマシン(トゥエンティワン・スタンダード)を掲載していますが、会社名は「Service Games」とされています。

 しかし、その下に「Exclusion Distributor-PACIFIC OCEAN AREA」 (太平洋地域独占販売者) と記載されており、この資料が発行された1956年(昭和31年)9月1日時点では、メーカーではなく、販社だったことが伺われます。

 その他の各種資料、サイトなどに説明されていることを総合的に判断すると、セガがメーカーとして「セガ・ベル」を販売した時期は1957年と推測されます。

 ちなみに、「セガ・ベル」の画像とマニュアルに登場するミルズのマシンを見比べると、その外観が全く同じであることがわかります。


 それに次いで、1958年(昭和33年)、ミルズが1938年に製造した「ベスト・ポケット」(8インチ立方体の世界最小スロットマシン)を、セガはコピーして
「ミニ・セガ」を製造します。

   
(画像クリックで大きな画像へ)

 ちなみに、以下が「ベスト・ポケット」の画像ですが、

  

 やはりコピー品であることがよくわかります。まるで、ミニ冷蔵庫のようですが・・・(笑)


 さらに、1960年代の初頭から中頃にかけて、セガオリジナル筺体(機構部はハイトップ筺体のコピー)である、「ダイアモンド3スター」、「ボナンザスター」などを、さらに、フロンドドアの一部が開くという新機軸を盛り込んだ次世代オリジナル筺体の「ロードセガ」、「コンチネンタル」を製造します。

     
     (ダイアモンド3スター)          (ロードセガ)


 しかし、その一方で、1964年、米のバーリー社より革命的なマシン
「マネー・ハニー」が生まれます。

  

 従来のマシンにはほとんど例がない、前面に大きな光看板を備えたモダンな外観に、フロントドア全体が開く斬新機構、さらに革命的な払い出し装置「ホッパー」を搭載し、それを「バーリールック」と称してシリーズ機種を次から次へと発表、あっという間にスロットマシンのデファクトスタンダード(業界標準)に成長します。

 セガは、上述の通り、次世代モデルとしてフロントドアを具備した画期的商品を開発しましたが、「バーリールック」の台頭により、時代に合わないマシンとなってしまい、やむなくバーリールックを模倣した「ウィンザー・シリーズ」を発表せざるを得なくなります。

 こうした経緯で、
セガ・ウィンザーシリーズとして「アズテック」、「マッド・マネー」などを、次々と発表していきます。

   
(画像クリックで大きな画像へ)


 しかし、ウィンザーシリーズには、バーリー社製品のキラーフィーチャーであった「ホッパー」が搭載されず、旧式の「コインスライサー」(積み上げられたコインを、電磁石で往復する「スライサー」で下からだるま落としのように払い出す装置)を使用しており、真のバーリー社のコンペティター(競合相手)となることはありませんでした。

 セガが強くプッシュしていたウィンザーシリーズがあまり普及せず失敗に終わると、オリンピア・マークVを細々と売り続けたり、ウィンザーシリーズを国内メダルゲーム場用に転用したりなどはしたものの、新規の開発は事実上諦めた状態になります。


 ただ、1970年代半ばに一度復活が試みられ、国内のアミューズメント向けとしてバーリー社のコンチネンタルの模倣品を開発しました。

 しかし、これも結局はヒットすることもなく、セガはスロットマシンの
自社開発を撤退することになります。

 ここまでの流れを、簡単にまとめると、以下のようになります。

  1950年代  ミルズ社ハイトップ筺体のコピー品を製造(筐体、機構部とも) 【セガ・ベル】【ミニ・セガ】など
  1960年前後 
セガオリジナル筐体を製造(機構部はミルズ社ハイトップのコピー) 【ダイアモンド3スター】など
  1960年代中 フロントドア具備の
次世代オリジナル筐体を製造 【ロードセガ】【コンチネンタル】など
  1960年代後 バーリールックを模倣した
ウィンザーシリーズを製造 【アズテック】【マッド・マネー】など
  1970年代中 バーリー社
コンチネンタルシリーズを模倣したアミューズメント向けマシンを製造

  【参考】 〜その後〜 
  1980年代中 サミー社パチスロの「ナイアガラ」、「ナイアガラ2」のOEM開発
  1990年代  再度、スロットマシンやビデオポーカーの開発に取り組み、ラスベガスに開発・販売拠点を持つ
         しかし、ネバダ州当局のライセンスを受ける事ができず撤退



 なお、上述したマシンたちは、デノミ表示が「5¢」と「6d」(6ペンスの意味)の両方があるため、英米向けに作られたのは間違いありませんが、この時期のスロットマシンで米国の骨董品市場に出回っている機種は、ミルズ社やジェニングス社などの米国製品がほとんどで、セガ製のものを見かけることはまずありません。

 このことからも、米国本土向けというよりも、本土以外のドル建て地域、つまり、セガがお得意様としていた米軍基地向けに作られていたものと思われます。

 ただし、当時のセガは英国に販売拠点を持っており、また現在の英国を始めとする欧州ではセガ社製のスロットマシンについて頻繁に語られたり、オークションに出品されるなど認知度が高いことから、米軍基地だけでなく、欧州市場にまで躍進していた可能性が高いといえます。


 ところで、なぜ、サービス・ゲームズ社は、わざわざ日本に進出してきたのでしょうか?
 これは、1951年(昭和26年)にアメリカで施行された法律、
「ジョンソン法」との関連があるようです。

 個人でのスロットマシン保持や、(一部を除く)州を越えての移動は禁止になり、米国のマーケットが極端に縮小していたので、業績拡大のためにジョンソン法適用外の新天地・日本へ手を伸ばしたのが実情と思われます。

 一方、ミルズ社は、先便を付けていたサービス・ゲームズ社と競合するよりも、太平洋独占販売権を与える方が得策と考え、自社スロットの特許を売却したと推測するのが自然でしょう。


 ちなみに、現在のセガ社内部には、日本法人になった1984年以前の資料が残っていないとのことで、その辺りの話は、自社ながらほとんどわかっていないようです。

 それが、この時代の話の多くが推測になっている背景になっているようです。


 
 【3】初めての日本国産スロットマシン

 [2]項で記述したように、セガ社(サービス・ゲームズ社)が初めて製造したのスロットマシンが「セガ・ベル」です。

 当時のセガ社は、外資系とはいえ、従業員のほとんどが日本人であり、また、「セガ・ベル」はコピー品とはいえ、部品を輸入して国内で組み立てるノックダウン生産とは異なり、パーツから自社生産しているもののため、これを初めての国産スロットマシンと言っても無理はないかと思われます。

 したがって、初めての国産スロットマシンは、1957年(昭和32年)の
「セガ・ベル」ということになります。

 もし、完全な日本国籍メーカーによる初めてのスロットマシンとなると、セガが日本法人になったのは1984年なので、その前のセガ関連以外の初スロットマシンは、後述の「ジェミニ(マックス商事)」が最も有力だと思われます。


 
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 【4】初めての営業許可スロットマシン 〜オリンピアゲームマシン

 オリンピアゲームマシンとは、警察庁から設置NGを食らった米国製(及びコピー)のスロットマシンとは異なり、正式に
営業許可を受けたスロットマシンのことを言います。略して、オリンピアマシンとも呼ばれます。

 1964年(昭和39年)、東京オリンピックが開催された年に登場したことにより、このような名前が付きました。

 初めてのオリンピアマシンは、セガ社の
「オリンピア・スター」(1メダル1ライン機)に間違いは無いようです。マシンの価格は35万円で、販売はセガと太東貿易(現・タイトー)が取り扱いました。

     

 オリンピア・スターには「ボーナスゲーム」はありませんでしたが、それを初めて取り入れたのは、以下の画像の中にある
「ニュー・オリンピア」です。ただ、ボーナスが当たっても獲得できるのはわずか85枚程度でした。

   
(画像クリックで大きな画像へ)


 では、営業許可にあたって、今までの米国系スロットマシンと何が違うのか?

 [1]項で警察庁が出した見解を覚えてますか?

 ⇒「所問のスロツト・マシン機については、技術介入の余地が乏しく、単なる機械自体の偶然性により賞品の得喪を争うことが主であるように思料される。従つて、遊技場営業における設置機械としては適当でないものと考える。」

 そう、オリンピアマシンから初めて「技術介入」が持ち込まれ、賭博機ではない(と言い張る)根拠ができたのです。それは、日本の特産物であり、今後も永遠に受け継がれるであろう…

  

 
「ストップボタン」


 この頃のマシンは、目押しで絵柄を揃えることが可能でした。ただ、今と違い、リール回転が異常に早くて、普通の人にはとても目押しできるレベルじゃなかったそうです。

 また、目押しできたとしても、当時はメダル1枚の料金が10円で、しかも100枚程度で打ち止めとなる、のどかな時代でしたので、荒稼ぎできるほどではありませんでした。(当時の目押し職人・談)


 オリンピアマシンもやはり沖縄を中心として稼働しますが、一部、本土でも稼働していたようです。

 現在の検定制度と同じく、マシンの設置の可否は各都道府県単位の警察が判断するものであったため、地域によってばらつきがありました。

 オリンピアスターのカタログには、「(東京の後)、横浜、清水、名古屋、博多、熊本、北海道に誕生し、続いて大阪、神戸から中国、四国地方に普及して行っております。」と記載されています。

 ⇒ 参考画像 : 「オリンピア・スターのカタログ」


 ただし、それが認可が下りただけの地域か、実際に設置があった地域かは、はっきりしていません。 

 沖縄以外で、風営法認可の形態でマシン設置の目撃があるのは、今のところ「東京都」と「大阪府」だけのようです。(銀座にスロットマシン第1号店をオープンさせたが、すぐに製造打ち切りになったとの説もあり)

 なお、カタログには従業員8人の月給の合計が30万円と試算されています。その時代背景で、「35万円」で販売されていたこのマシンが、いかに高価なものだったかが伺えます。


 ところで、このマシンはセガ製であるはずなのに、

  

 
「株式会社 オリンピア」というラベルが貼られています。

 これは、セガと太東貿易による共同会社ですが、現在の南国育ちやNew島唄などが人気のオリンピア社と、どのような関連があるのかわかっていません。

 オリンピアの公式ホームページの会社沿革には、会社設立が1985年と、相当、後の年代になっています。

 実は、筆者が、オリンピア社に対して、1985年よりも前の会社のことについて質問を出したのに、現在まで回答がありません。

 過去に、何度か質問を出していて、ひどくくだらない質問(プレイガールVのVは「5」か「ヴイ」か?など)にも、全て丁寧に回答をいただいていただけに、今回の対応を見ると、実はセガと同じく、オリンピア自身にも詳しくわかっていないのではないか?と推測しています。

 ただ、現在のオリンピアがセガやタイトーと無関係であることを考えると、現在のオリンピアと旧オリンピアは全くの無関係、もしくは、旧オリンピア社のスタッフが現オリンピア社設立時に混じっていたという程度の、ごく希薄なものではないかと思われます。


 ちなみに、上記で突然、太東貿易(現・タイトー)が出てきたのは、以下のような経緯があります。

  ・太東貿易が数年かけて機械(3リール、ストップボタン付き)を開発し、1964年に営業許可を得て遊技場を開設
  ・それを知ったセガが、真似をして同様に許可を得ようとしたため、警察を間に挟んで太東貿易と激しく対立
  ・結局、セガと太東貿易で共同会社「オリンピア社」を設立し、製造はセガが担当、販売は分け合うことで決着

 ⇒ 参考資料 : ゲームマシン 「それは『ポン』から始まった」


 
 【5】初めてのメダル式スロットマシン

 これまで記述したスロットマシンは、基本的には、現在のような「メダル」は使用しません。
 直接、硬貨を入れて、払い出されるのも硬貨という、まさにギャンブルマシンです。

 しかし、オリンピアマシン登場の前後で、
メダルを使用するマシンが登場します。

 恐らくは、日本内での営業許可に関連して、警察とメーカーの間でのせめぎ合いがあったと思われますが、そのあたりはわかっていません。


 なお、各資料の情報より、本サイトの業界初項目では、その該当マシンを

  

 セガの
「ボナンザスター」としていましたが、前述の「なぞのX」氏より、非常に興味深い見解と共に疑問の指摘を頂いていますので紹介します。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 私が本当に謎に思っている点は、「沖縄のスロットマシン事情とオリンピアマシンの関係」です。

 米軍基地の中には現金稼動のスロットマシンが合法として設置されているのに、市井のスロットマシンはメダル対応にさせるというのは、基地内は治外法権という解釈ならばあり得ないことではありません。

 しかし、当時の沖縄は米国そのもので、日本本土との行き来にも旅券を必要としていたわけですから、この論理ではないと思われます。一体、当時の沖縄の警察は、日米どちらの法律を根拠として市中の治安を維持していたのでしょうか。

 私は、沖縄と本土それぞれでメダル式のスロットマシンが稼動するようになった経緯が、このようなストーリーであればすっきりすると考えています。

 (1)米国統治下の沖縄で、米軍払い下げのスロットマシンが市中に出回り流行。

 (2)沖縄の警察が、民間人(旧日本人)のスロット遊戯をけしからんとして口を出す。

 (3)日本のセガ社のみがこれに呼応してメダル対応機を作る。(←米国のメーカーは沖縄市場だけのためにわざわざコイン周りのメカを作り変えるという面倒なことはしなかった。もしくは、そもそも極東の小島に市場があるという認識さえなかった)

 (4)セガ社はタイトーと組み、メダル対応機を本土でも稼動できないかと日本の公安に働きかける。

 (5)公安は、ストップボタンを取り付けることで風営適合機として認める。(セガ、タイトー両社とも、社長が米国人で、米軍と取引があったことが認可の可否に影響した)

 以上は、事実に私の推測を交えて構築した創作ストーリーです。
 私には、同じセガ社製であるオリンピアマシンと沖縄のメダル対応機が全く別個に製造され使用されたとは考え難いのです。

 また、上のストーリーとは逆の順番で、本土でメダル使用のオリンピアマシンができたので、これを沖縄に展開したというストーリーも考えられるため、私は米英市場向けの
「ボナンザスター」を初メダル式とする説には懐疑的でいます。

 オリンピアと沖縄のメダル対応機、一体どちらが先だったのか、これもぜひ知りたい謎のひとつです。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 この辺りは、引き続き、追跡調査を行う予定です。


 余談ですが、少なくとも1970年代初頭には、オリンピアマシンではメダルが使用されていました。

 現在のメダルはパチンコ店単位で異なるのが常識ですが、当時のメダルは、スロットマシンに付随されるものであり、デザインは統一されています。

 以下の画像は、オリンピアマシンで使用されていたメダルですが、現在使用されているメダルより直径が大きく、表に「聖火」、裏に
「沖縄の守礼門」がデザインされています。

   
(画像クリックで大きな画像へ)

 これを、メダル式スロットマシンが沖縄に端を発することの傍証と見ることも可能です。


 が、一方では、こんな出来事がありました。
 
 1971年頃の切手ブーム、とりわけ、「琉球切手ブーム」という社会現象が起こっており、投機目的で切手を収集することが流行していました。
そして、その切手のシンボルデザインはまさに「沖縄の守礼門」だったのです。

 当時の琉球切手を取り巻く熱狂には凄まじいものがあり、このブームの影響でオリンピアマシンのメダルがデザインされたとなると、初メダル式スロットマシンの正解はかなり限定されてくることになります。
 
 しかしながら、もちろん、このメダルが琉球切手ブーム以前から使われていた可能性もあります。もしくは、全く異なるデザインのメダルがその前に存在したのかも知れません。
 
 「初のメダル式スロットマシン」の探索は、スロットマシンの歴史における
最大の難関なのかも知れません。


 
 【6】初めての3メダル5ライン式スロットマシン 〜アメリカンパチンコ

 オリンピアマシンは、「1メダル1ライン」のスロットマシンでした。

 これを、現在の基本仕様である
「3メダル5ライン式マシン」として初めて登場したのは、1977年(昭和52)の、マックス商事(現・バルテック)の「ジェミニ」です。

  


 このマシンあたりから、オリンピアマシンではなくアメリカンパチンコ(アメパチ)と呼ばれるようになります。
 ボーナスゲームも進化し、一度ボーナスが当たると打ち止めまで出続ける、という仕様になりました。

 また、筺体の形も随分変わって、ここでアップライトと呼ばれる筺体が登場しました。

 なお、カタログ収集家のウッキー様より、非常に状態の良いジェミニのカタログ画像を頂きましたので、是非、ご覧ください(ホッパーやコインセレクターなどの説明もあります)。

 ⇒ 参考画像 : 「ジェミニのカタログ・チラシ・ポスター」


 しかし・・・これもまた、実は、筺体細部から絵柄デザインに至るまで、アメリカのスロットマシーン(バーリー社の「5-LINES PAY」など)の
全くのコピーのようです。

 ⇒ 参考記事 : 東京ラスベガスランド 「ニッポンのスロットマシン 5章」

 この時期あたりまでは、日本のスロットの源流はあくまでも「アメリカ」であったわけです。


 ちなみに、オリンピアマシンでは、目押しで絵柄を揃えることが可能でしたが、ジェミニではその対策が取られており、目押しによる絵柄揃えが不可能になっていました。
 
 0号機の特徴として、「目押しで絵柄揃えが可能」と説明されることが多いですが、それはあくまでもオリンピアマシンまでの話であり、アメリカンパチンコやその後の箱型筺体のマシンには当てはまりません。
 
  【追記】
    「なぞのX」氏によるその後の追跡調査で、バーリー社製品とジェミニの関係、そしてジェミニが「最大4コマスベリ」
    により目押し不可になった経緯、さらにはジェミニの内部構造などが明らかになっています。
 
    かなり高度な内容ですが、興味のある方は是非ご覧ください。
 
    ⇒ 参考記事 : 東京ラスベガスランド 「続・ニッポンのスロットマシン」
 
 
 さて、日本のスロットマシンの歴史を作ってきたセガは、[2]項で記述した通り、この辺りでスロットマシン業界から撤退してしまいます。

 しかし、その後、平和と技術提携を図ったり(これは破綻)、パチンコ系情報サイトを運営したりと、パチンコ業界への復帰を試みていました。

 そして、ついに2004年、業界No.1にのし上ったサミーとグループ化し、「セガサミーホールディングス(株)」を設立するに至りました。


 
 【7】初めてのパチスロ 〜箱形筺体

 ここで、やっと「これが日本のスロット」と言えるマシンが登場します。
 それが「パチンコ型スロットマシン」、略して
「パチスロ」

 いわゆる、現在の筺体の形である「箱型」を実現したものです。

 初めてのマシンは、1980年(昭和55年)9月18日に認可された、尚球社の
「パチスロパルサー」です。

   
(画像クリックで大きな画像へ)


 まだBIGボーナスは存在せず、3種類のREGボーナスが搭載されています。

 このマシンから、初めて「CPUによるフラグ判定」が採用され、パチスロマイコン化の先駆け的存在になりました。

 合わせて、画期的なリール駆動システムである、「ステッピング(パルス)モーター」も初めて搭載され、結果的に従来のアップライト型から、大幅な筺体の小型化に成功します。

 さらに、「テーブル制御」によって出目を決定するシステムも採用され、「リーチ目」という概念を誕生させました。

 その他、「スイカ絵柄使用」や「コイン受け皿の横に灰皿取り付け」なんてのもこれが初めてで、初のパチスロにして、数多くの画期的な構造・機能が盛り込まれた歴史的マシンと言えます。

 ⇒ 参考記事 : 懐かしのぱちすろ名機列伝「パチスロパルサー」


 そのコンパクトな筺体は、既存のパチンコ店に導入しやすいことから、本当に「日本のスロットの普及」が始まったのは、ここからだと思われます。

 そして、沖縄のみで稼働していたパチスロが、初めて本土(九州)に登場します。
 それが、オリンピアの「ジャックポット」でした。(詳しい時期は不明)

  


 ちなみに、現在では山佐の代名詞になっている「パルサー」ですが、上述の通り、初めてのパルサーを製造したのは尚球社(現・岡崎産業)です。(販売は、尚球社と日活興業(現・ネット)の両者が行っています)

 当時、尚球社と日活興業は提携関係にあり、1号機時代になると、日活興業が名前をもらって「パルサーXX」を単独販売していますが、それを実際に開発したのは、尚球社でなく「山佐」でした。

 さらに、1.5号機時代では、販売権が日活興業から山佐に移って、山佐が「パルサーXXU/Σ」を販売、そのままうまく「パルサー」を自社ブランドにしてしまった、というのが経緯です。(「プラネット」の方は、山佐独自ブランドです)


 
 【8】初めて法律に「パチスロ」が登場 〜1号機 

 1985年(昭和60年)の2月に、新風営法が施行されます。
 その中に、初めて
法律の中にパチスロが登場しました。

 といっても、「パチスロ」という表現ではなく、「回胴式遊技機」という取って付けたような名称でした。

 ここで、それまで自由奔放であったパチスロに対して、初めて「ルール付け」がなされたのです。(実際には、ジェミニ開発時に、コマ滑りに関して警察とひともんちゃくあったようですが…)


そして、その規定を元に作られたマシンが
「1号機」です。

 ゲーム性的には、主に差枚数によってボーナスを成立させる「吸い込み方式」が多くのマシンで採用されました。
 そのため、差枚数もしくはゲーム数による「天井」が存在します。(天井が無いのは瑞穂のファイアーバード7のみ)

 その他、「BIGボーナスの純増方式」、「JACゲームの1ライン方式/1リール方式選択」などが規定されています。

 BIGボーナスの内容は、「小役ゲーム:30GもしくはJAC IN:3回が上限」が既にスタンダードでした。REGボーナスはJAC6回で終了です。

なお、ここから、マシンを世に出すためには、1982年(昭和57年)に設立された警察組織、「保安電子通信技術協会(保通協)」の検査が必要になりました。


初めての1号機マシンたちは、東京パブコの
「アーリーバード」、ユニバーサル販売の「アメリカーナXX」、高砂電器の「ワンダーセブン」、北電子の「キャスター」です。

           

 ⇒ 参考記事 : 懐かしのぱちすろ名機列伝 「1号機の基本的解説」


ちなみに、
「0号機」は、後世になって、「1号機よりも前のマシン」という意味で、便宜上、造られた言葉です。
当時に、0号機と呼ばれていたわけでありません。


 
 
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